デザインの仕事をするきっかけは、おそらく幼少期の年長まで遡ります。
当時3歳離れていた姉がいて、女の子の象徴である赤の服を着ているのを見て、自分も赤を身に着けたいと思ったのです。ところが2人で赤を着ていると、「まもる君は男の子なのに赤なんだね」と近所のおばちゃんに言われることが多かった。
それでも赤が好きなので色んなものを赤で固めていました。やはり「女の子みたい」と言われ妙な抵抗感を感じました。「なんで赤が女の子なのだろう?」
好きな色は人それぞれだと思うのですが、環境や習慣によって人は普通とか、普遍のイメージを持つものです。これは後で気づいたのすが知らないうちにDNA的に刷り込まれてきた結果なのです。地球上、大陸上、国上で刷り込まれているのもです。地政学にも通じます。
そんな漠然とした疑問がデザインの道のスタートだと思います。
それから小学校に入り、赤を纏いながら、やや馬鹿にされながらもわが道を進んでいたのですが、当時は図工や絵を描くのが最も嫌いな事で毎日そんな時間が憂鬱でした。
そう、そんな時間があると学校に行きたくないくらい。逆境との戦いです。
反逆心と逆境がその時深く心に刻まれたのかもしれません。
ただ、そんな汚い絵を見て当時の先生が「五重まる」(赤ペンでなると状に丸を何度も描く)を付けてくれて、それがとても嬉しかったことが、小さなやる気を呼び起こしてくれたのだと思います。
おそらく、全員に五重丸はもらえるのですが。。
それでも単純な自分は褒められて嬉しかったのでしょう。下手なことが褒められると嬉しさが百倍に感じるものです。
それから、テレビのアニメを見て鉛筆で真似をして描くようになりました。
ある日、休み時間もそのような落書きをしていると、女子たちが机に集まってきて、その絵を欲しいというのです。
「いいよ」と言って、あげたら、翌日の朝から机の周りに女子が人だかりになっていました。みんな絵が欲しいとのことです。
ちょっとしたハーレム状態でいい気になってしまいました。
そんなちょっとした経験がありましたが、その後で絵を描くことはなくなりました。
ただのほほんと過ごしました。
しかし、中学生になるとひたひたと受験問題があり、高校生になると進路問題が浮上してきました。
つまり将来は何を仕事にするか決める必要が出てきたわけです。当時特に勉強ができるわけでもなかったのですが、大学ともなるとそれなりに生きる道を考えねばならず、そこでちょっとだけ絵が上手く描けると思った母親が美大にいけばどう?と提案してきたのです。
そう、ちょっとした時に背中を押す人が現れます。
思い返せば全くひとりで選択した道ではありませんでした。
たしかに一芸を極めるのも1つかと思いましたし、美大といっても当時花形であった電通という広告代理店への道も開けていたので頑張ることになりました。
それから高校から画塾という絵の塾に行くことになります。
これがまた困難な道がありました。片道2時間かけて通ってがんばっている私に対して、ある時、先生に「君は才能がないから辞めたほうがよい」と三行半を突きつけられることになります。
ちょっと絵が描けるくらいで、調子にのっても世の中には大勢の才能溢れる芸術家がいるのです。しかも美大は当時、倍率13倍でしたからそう簡単には入れません。
そう人生甘くない、そう思いました。
つづく